matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

末法末世

仏教が衰え、道徳が乱れた末の世のこと。「末法」は釈迦の入滅後、正法しょうぼう(五百年間)、像法ぞうぼう(千年間)に続くその後の一万年のこと。末法の世には仏法が衰えて、救いがたい世の中になるという。
貞観以来の大震災が起きたわけだが、仏教史感でいえば、貞観の時代でもすでに末世になっていたわけで、ことさら現代がどうしようもない時代であるというわけでもないはずだ。いまや、人類の人口は70億を超えながら、地球はそれを受け入れている。私の小学生時代に、このままいくとすぐに石油を初めとして天然資源を使い果たし、人類の将来に不安を抱えていたはずだ。思えば、原子力発電の建設が始まったころでもある。いつのまにか諸悪の権化というような存在に思われ、なぜそんな危険な手段を日本のみならず世界が受け入れてきたのか、一般人は一斉に避難をしている。私たちは騙されていたんだと。
当時、世界人口は30億程度であり、いまとおなじようにアフリカでは飢餓が発生し、紛争や戦争は存在していた。それでも増え続けていく人類を支えていくには、膨大な資源、それもエネルギーを必要とされていた。それに対する対策が科学技術であり、原子力だった。40年経ってみると、原子力がなくとも、その後の採掘技術の進歩などで石油や天然ガスの採掘可能な埋蔵量は増加し続け、増加しなくなったのは個々2,3年にすぎなかった。シエールガスやメタンハイドレートなど、有望な天然資源もまだ残されているのを見ると、結果論として40年前に原子力発電を選択したことは、必ずしも必然ではなかったことになる。
しかしながら、それは結果論ではないだろうか。悲観的な将来予測があるならば、対策することが自然ではないだろうか。次の世代のために今、木を植えていくことを止めるわけにはいかない。ただ、植林後の生育の過程では、時期に応じて幼齢期には除草、下草刈り、つる切、間伐、枝打ち、除伐といった手入れが必要となる。どの木や枝を残すかということが、継続的に行う必要がある。40年前にサンシャイン計画があり、持続可能なエネルギー源を策定していたはずだが、いつのまにか、原子力だけが、脱石油の代替として残されたのは、経済的、そして政治的背景だったような印象がある。
末世の時代になると、仏の教え自体が有効でなくなり、救いがたい世の中であるということだ。ということはいくら、修行しても救われないということで、修行自体に意味が無くなり、宗教の存在意義自体が無くなる。今は科学技術信仰の末世思想になりがちではないだろうか。CO2,自然破壊、種の絶滅など、その根源が経済活動や科学技術の行使であるという論も多い。しかしながら、70億を超え、さらに増加している人類が地球で存在していくには、経済活動と科学技術の行使以外無い。一人っ子政策や先進国での少子化が、結果として高齢化の進行させる。子供のいない社会や種は絶滅する。
仏教の末世思想は、仏教自体の否定であったが、それを法然は、専修念仏、つまり、精神的な救済のみであることを仏法として突き詰めた。それは既存概念の否定、既存の存在価値の否定である宗教革命だったわけだが、迫害をうけながらも教団はその後、日本の宗教の最大勢力となって現在に至っている。単なる悲観論や絶望感から逃れるには現状逃避が有効だが、念仏だけでは魂は救われても、種としての存在が危うい。しかし、念仏は、来世の救済を約束することにより、現世における絶望感を極小化してくれる。いまこそ、日本には念仏になりうるような将来に対する期待感を抱かさせる戦略が必要ではないだろうか。

法然入門 (ちくま新書)

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