matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

水屋の思い出


災害に備えるとはどういうことか。
私が生まれて育って、今も住んでいるところは、昔は輪中と呼ばれていた地域であり、高校生時代には実際に水害に会っている。したがって、かつては生活の中に防災があった。Wikipediaで「輪中」を見てみると、

助命壇
洪水の際に、水害から身を守るために住民が避難した高台。多くは集落の中心に作られ、目印となるように木が植えられている。多数人が避難できるが、食料などが備蓄してあるわけではない。水屋を作ることのできない貧しい農民が利用した。命塚とも。
水屋
母屋とは別に石垣の上など、高い場所に作った家屋。母屋と渡り廊下でつながっていることも多い。一般には倉庫として扱われ、洪水の際には住居として使われる。建造する費用が高いので全ての家にあるわけではなく、所有者は裕福な家に限られた。
上げ仏壇
水害の際に仏壇が濡れないように可動式となっており、水害が発生したときは天井裏へあげられるようになっている。
上げ舟
水害の際の移動手段として、軒下などに小船が備え付けられていた家も多い。これらは上げ舟と呼ばれた。

この中で、水屋とか、上げ舟は小学生ぐらいまでには近隣の旧家に残っていた。明治時代に河川が整備され、毎年のように水害が発生することが無くなり、そのような施設自体がどんどん無くなり、いまは、その実物を見るためには、木曽三川公園にいくしかない。しかしながら、わたしの体験した水害は、異例の長期的な豪雨であり、下流では堤防が決壊するようなもので、土地の老人にも記憶がない規模だった。しかしながら、水屋があるような昔からの集落は比較的高い地盤に集まっており、浸水したのは、戦後の新興住宅地だけだった。公共工事のおかげで強靭な堤防と排水機のおかげで数十年発生していなかった水害が起きたのは川の水位が上がり排水自体ができない状況が長時間続いたせいである。想定を超える災害はいつかは起こる。
今回の津波で海際がいかに危険があるかが身に染みるわけだが、じゃあもうそこには住めないのだろうか。見る限り、山が迫った港町では住宅となる平坦地は限りがありそうだ。また、生まれた土地でもあり、海に生業を持っているからには海のそばに生活せざるを得ないと思える。私の父も、水害でほぼ水没した家を同じ場所に建てなおしている。国は、遊水地を堤防の内側に確保し、対策をとったせいか、以後、この地域は浸水をこの30年は一度も起きていない。また、水害にあった人たちは、ほぼ家を立て替えたが、皆一様に1mは土盛をしている。しかし、最近、この地域に移り住んでくる人たちが建てる家に土盛をしていることは、ほとんど見受けられない。バリアフリーの観点からは、段差ができてしまい、玄関前の階段は高齢者には辛いものになっていて、息子の私が家を立て替えたときは、ハウスメーカの設計者から土盛の必要性を問われた経緯もある。
私の通った、そして非難した小学校は、四階建てである。これは水害地域の避難場所にもなる校舎であることを意識している。水屋を個人の住居で持つことは現実的ではないが、地域単位に確保することは必要と思える。

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