matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

来年の大河ドラマは「風林火山」


来年の大河ドラマを睨んで、山本勘助ものが書店に並び始めている。去年の今ごろは確か山内一豊だった。早速、まず読んでみました。

山本勘助が架空の人物であるということが、学会の通説であったが、実は違うのだというのが本書の主張である。
「ヤマ勘」が山本勘助からきているかもしれないと言うのは面白い。本当の語源はなんだろうか。
それはともかく、歴史上の史実と言われる物は、記録が残っているものだけで、記録に残っていないものは、物語であり、フィクションである。しかしながら、時代が経るとフィクションでさえ歴史的背景から形成されているためか、どこまではフィクションであるのかも区別が難しくなっている。伝説や伝承も他に記録が無ければ、当時の歴史的背景を推測する材料にせざるをえない。
我々が歴史的事実と思い込んでいるかなりの部分が、「物語」なのだろう。
太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)

太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)

太平記よみの語りは、中世・近世を通じて人びとの意識に浸透し、天皇をめぐる二つの物語を形成する。その語りのなかで、楠正成は忠臣と異形の者という異なる相貌を見せ、いつしか既存のモラル、イデオロギーを掘り崩してゆく。物語として共有される歴史が、新たな現実をつむぎだす

物語は歴史が期待する結果であり説明であるかもしれない。
なにが事実で、なにが虚構なのか区別がつかなくなる。
史学は、残された手紙や公的な行政的書類などの文書などの記録から検証する。検証できないことは、史実とは認めない。
中国では、王朝が交代後に後継の王朝がその歴史を記録する。司馬遷の時代から中国は歴史の記述に関しては、取り組みには宗教的さえ感じる。しかしながら、その編纂作業は、後世に行われるために意図的にならなくとも、限定された状態で書かれる。
歴史とは、決して正解が証明しきれないものであり、そこに面白さがある。