matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

部分最適と全体最適のくりかえし


改革というのは、現状を変えることで、現状を否定するのは、改善を目的とするためだ。問題解決でよく言われるのが、あるべき姿と現実の乖離が問題であり、それを解消するのが解決策ということになる。
しあkしながら、あるべき姿というのが、結構厄介でなにが正解かわからない。というか、正解なんてないのだ。なにを持って正解という定義さえ難しい。結果とか効果とはその受益者の数だけあり、実社会において、その関係者は人のかずだけ存在する。
一体、なにを最適化すればよいのか。対象をしぼることにより、その多様性を少なくし、最適化しやすくなる。しかしながら、全体からみると、サイロ化された状況であり、最適とはとても思えない状況になる。
対象をひろげて最適化を図れば、その効果が薄くなり、影響も大きくなる。影響がおおきくなり実行の困難さは、その対象の広さに比例する。
会社も、まわりの状況の変化に対応すべく変革が求められる。それは、部分最適からはじまり、そしてそれが破綻して全体最適を試みる。そして、その困難さにまた部分最適に戻る。この繰り返しをしているような印象がある。
政治や社会も、おなじではないか。

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

紫禁城にシンポライズされた、元明清時代の東アジアの時代史である。
国というにはあまりにも大きな中国という地域をどう統治していくかという命題はいかに統治機構を組織するかであり、いかに徴税をおこない、国を防衛していくかにつきるようだ。革命は王朝交代であり、統治システムのリセット機会でもある。広大な中国という多民族で多様な社会を包含する地域は、どうしても地方分権にならざるを得ない。いかに地方を統治するかは、大きな課題だ。地域勢力を支配していくために、大権を与えた中央役人を地方に派遣する。しかし大権を持つが故に中央からの監査を難しくなる。おうおうにして決められた数値目標の達成のみがそのゴールとなる。その数値目標とは、徴税である。ありていにいえば、年貢のみ上納していればよい。これは、企業におけるゴールが利益と株価上昇であるかのようだ。
そのプロセス、手段についての評価基準はなく、ゴール達成のみが評価されがちとなる。
政治により、プロセスや手段についての評価がなくなると、結果として民衆の不満がつのり世情が不安定になる。顧客満足度が下がることにより、顧客離れとなり、企業が没落するが如く、国としてのなりたちがあやうくなり、王朝交代が起きる。その過程において、乱世となり、国は荒廃し、人口は激減する。
いまの日本では、革命は起きるのだろうか。そして革命が必要なのだろうか