matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

謹賀新年

2006年になりました。
年末になると、特別番組が多いが、一挙放送というものがあり、連続ドラマを一気にみれるという機会でもある。
それで、見たのが、「女王の教室

うーん、金八モノといい、学園モノは、学生だけではなく、大人が見るものにもなっている。学校というのは、人生の中でそんなには長い時間ではないのだが、人間形成時期になるものだけに考えさせられるものがある。この「女王の教室」の主役?の教師がいう台詞は結構痛切なものだ。大人社会の現実をそのまま小学校6年生に伝える。しかしながら、現実的には、12歳では理解ができないのではないかと思われる。大人である我々には、十分、共感を得るであろうが。これを見ても、学園モノというのは、実は、過去、学生だった人向けということであろう。金八モノにいたっては、30年近く続いているのだから、最初の放映をみた学生の世代は既に不惑の年に近づこうとしているだろう。

日本の義務教育の教師というのは、大学卒後、そのまま教員採用されている方々が大部分であろう。つまり、学校という世界しか経験のない方々ばかりである。
わたしの学生時代には、「デモシカ先生」という言葉があった。
「先生にデモなるか」
「先生にシカなれない」
高度経済成長時代、大卒の卒業先は数多くあり、あえて教員になろうとするものは少数派だった。
いまや、少子化で学生数は激減し、リストラがない(なかった)教師という職業は、狭き門となった。いまや、「デモ先生」はいても、「シカ先生」は少ないかもしれない。

子供の学校で、小中学校に出入りさせていただいているが、正直、人間として尊敬できるような方が見受けられえない。もはや、「先生」は、聖職ではない、普通の教育産業になっている。自分の子供時代には、もっと「先生」がいた覚えがあるのですが。
自分が幼いときには、人を見る目がナイともいえるが、それだけではないのではないか。

わたしの世代を教えていただいた先生がたは、戦中、戦後に成長期を向かえ、年長者には戦争体験があり、年中者には終戦直後の戦前教育から敗戦による、教育自体の価値観の崩壊を経験された方、そして、そのあとには、学園紛争を経験されたかたがたでした。日教組がもっとも戦闘的な時代だったかもしれない。
70年安保がすぎさり、大阪万博が終わったころから、学校は聖域ではなくなったような気がする。

年末に読んだ新書が、

戦国の雄と末裔たち (平凡社新書)

戦国の雄と末裔たち (平凡社新書)

戦国時代の雄の末裔たちの話であるが、やはり、「家」というのは、歴史であり、文化だなと強く感じる。過去「家」というのは、組織体であり、社会活動の母体であり、シンボルなのだ。血縁としての価値よりは、「名」としてのシンボルが重要なのだ。この本に書かれているのをみても、養子という形で継承してきた末裔たちというのは遺伝学的には、純粋に末裔といえないかもしれない。
いま、天皇家の後継問題が論議されている。そこでの大きな主張が「父系」の厳守性である。
要は、日本国民が「天皇」というシンボルを認められる根拠が必要なのだが、それが「父系」かというのは、論拠になるのは弱いような気がする。過去、「家」を大切にしてきた日本人は、「家」を守るために、養子縁組を辞さずに存続させている。

企業においても、「家」意識はある。コーポレート・カルチャといわれているものだ。カルチャとはなにかというのは説明が難しいのだが、私見ではあるが、私は、「共通の価値観」だと思う。
戦略、戦術の決定をする場合、組織として、やはり合意が必要であり、合意のための会議や調整をしなくても、共通の行動が取れるというのは、やはり、判断基準である「価値観」が同一なためだと思う。
だから、合併が難しい。資産、技術など補完し、合算するスケールメリットはたしかにあるが、価値観のちがう企業が合併しても、シナジー効果は発揮できない。
男と女が、互いに多くの魅力を感じて結婚したとしても、価値観の違いは共同生活を進めていくことはできないのと同義である。