matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

初詣

matsuok2006-01-01

今年に行ったのが、
北野天満宮
ここは、菅原道真を奉った受験生にはおなじみの定番というところか。家にも一人受験生がいるので、今年は足を伸ばして京都まできたわけですが、駐車場が周囲にはまったく無くて結局、境内内の駐車場を待つ長い車列にならんだ。祈祷料金を払って、本殿内で祈祷を受けて、お守りや絵馬、お札を貰ったが、なかに梅茶や、梅香箸が入っていた。そういえば境内には梅の木がやたら多い。菅原道真の命日にあたる2月25日が梅の季節だったのが由縁のようだ。そういえば、境内内には牛の像がおいてあったるするが、これも菅原公が亡くなった丑年丑の日、丑の刻だったのが由縁でもある。

祈祷の際に、祈祷のお願いをした氏名や希望を神主が詔として読み上げるのだが、京都大阪や神戸などは高校より、中学が多く、私立中学受験が中心になっていて、中高一貫教育で大学進学という流れがが都市部では定着しているのかもしれない。

帰ってきて、インターネットで北野天満宮のことを調べていると、豊臣氏との関わりが多いことに驚く。
社殿は豊臣秀頼が寄進したもので、境内には、史跡や伝説の遺跡が多く、表参道の松林は、秀吉が北野大茶会を催したところで、境内西の御土居は、秀吉が京の区画整理のために築いた土堤だそうだ。
豊臣秀吉といえば、大阪だが、実は現在の京都の町の基本を創ったのは豊臣政権なそうな。京都を御土居で囲い、都市計画により、武家屋敷、公家屋敷、寺内町(寺町)など、身分別に区分けしている。これは、江戸期の各城下町のベースになったようだ。
御土居堀ものがたり
もっとも、都市計画の走りは、織田信長ではないかと思える。信長は拠点を那古野から清洲、小牧、岐阜そして、安土へと移し、その度に町割りをおこなっている。安土の次には、本願寺の跡地である大阪を意図していたようなふしが数多くある。秀吉も、基本的な戦略や発想は信長の忠実な後継であることから、大阪にその拠点を定めたのは、秀吉の独創的発想とは、私には思えない。