夏休みである
子供が夏休みになり、いままで先に家をでていた子供たちが、いまや出勤するわたしを見送る。夏休み。学生の特権だ。40を超えた今となっては、遠い昔のことで、夏休みに自分がなにをしていたんだろうか。
- 小学生時代、夏休みは非常に長く感じられた。セミの声と、雲と青空の記憶。ひんやりとした畳と廊下の感触。なにを感じていたのかどうしても思い出せないのだが、自分にとって幸福だったのは、母親が山奥出身で、夏休みは母親の実家に滞在できたことだ。バスをのりつぎ、川のほとりで降りると、その先はバスもいかない山奥の部落。バスの停留所にはよろずやがあり、そこで、ラムネを買ってもらって、飲んでいると、母親がそこから、手回しの黒電話で実家に電話すると、叔父が車で迎えにきてもらえる。一度、歩いていったのだが、ものすごい時間がかかった想いがした。後年、大人になってからあるいてみたら、たいした距離ではなかったが。
昭和40年代の頃のはなしである。
さすがに都市部の電話は、ダイアル式で自動交換だったが、母親の実家の村では手回しのハンドルを回して、交換手を呼び出すのが、やっと、ハンドルがなくなった頃だった。
わたしの家でも、やっと電話が引けたのもその頃だったはずだ。今では信じられないことだが、電話を引きたいと思っても、数年待たされることは普通のことだった。わたしの家のまえは電電公社の職員だったので、町内では唯一の電話だった。
もちろん一家に1台、自家用車があるなんてことも想像がつかず、父親はスクータで会社に通っていた。わたしの父親は、終戦で復員後、義理の叔父がやっていた運送会社に助手として入り、トラックの運転手となった男だが、自家用車をもったのは、わたしが免許をとってからである。
父親の話を聞くと、モータリゼーション以前の日本の姿が面白い。
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- トラックには運転手と助手の二人
- 岐阜から京都まで国道を走るとすれ違うのは数台のトラックのみ。もちろん高速はない
- エンジンは、まき燃料のトラック(ガソリンが配給)
- タイヤが、飛行機の廃品利用
- 運転を教えてもらった義理の兄(わたしにとっては叔父だが)は、戦車兵
- 免許の試験は、白線の車庫入れでOK
- 運送すると荷主からリベートがもらえた
終戦直後で、ものを運べばお金になる時代。圧倒的な供給サイドが強い商売。
当時、運転手は、特殊技能で、貴重な時代。
そういえば、昭和40年代初めまでは、バスには、運転手のほかにかならず車掌がいて、運転手は運転に専念すればよかった。
終戦直後の状況は、まさに「国敗れて山河あり」の山河のみだったようだ。その意味では、アシアやアフリカ諸国と条件はおなじだったかもしれない。ではなぜ、日本は、経済大国になれたのだろう。
うーん、結局は、安定した政治状況だったということなんでしょうか。
第2次大戦後、中国と日本は同一条件といえたかもしれませんが、日本で90年代は失われた10年といわれた以上に、90年代まで、発展できなかったのは、ひとえに政治状況の差だったような。