matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

総理への道

総理が、無派閥の補佐役たる官房長である人になった。

日本の行政の長たる総理は、立法府である国会議員によって選ばれる。つまり、最大多数を占める政党の長がその座につくのが結果だ。
国政選挙投票率を、50%とすると、最大数の政党は、国民の50%の過半数の支持を得て、さらにその政党の議員の50%の素地を得れば、総理になれる
最低で12.5%の国民の支持が受ければ良いとも言える。

最大政党のなかで支持される国会議員の数をいかに確保するか。

本来であれば、同一の理念なり政策で同士をあつめるのだが、現状、自民党はいまだ、「派閥」とよばれるグループでのつなひきであるようだ。

政治家が欲しいのは、カネ・ポスト・票

'96年の衆院選から小選挙区制になった。その結果、公認権を持つ党執行部の力が強大になり、いまのように誰も安倍批判をできないような政治に。
カネは、政党助成制度は、1994年に政党助成法を含む政治改革四法が成立し導入され、国が政党に対し政党交付金による助成を行うようになり、党執行部特に幹事長等に委ねられた。

いまや、派閥は、選挙公認とポストを得るための互助会となったようである。

派閥の長が、カネを配り、中選挙区制で同一選挙区で複数の公認を可能だった時代は、与党内に複数の派閥が存続したが、いまや、勝ち馬にいかに見極めるかのみが最重要関心事に見える。

総務省|国政選挙における投票率の推移

国政選挙の投票率は、平成29年10月に行われた第48回衆議院議員総選挙では、53.68%、令和元年7月に行われた第25回参議院議員通常選挙では48.80%となっています。

かつては、実力者たる派閥の長が存在した

当時長期政権だった7年8ヵ月に及んだ佐藤政権、佐藤退陣後の1972年以降は、三角大福中の5人の派閥領袖が中心となって、日本の政界が動いていくことになった。
戦後の日本政治で最も激烈な権力闘争として語り継がれる「角福戦争」と、その延長の「大福戦争」。ルーツは、佐藤栄作総理が、台頭する田中角栄(1918年~'93年)と福田赳夫(1905年~'95年)を競わせながら、自らの長期政権を続けたことにあった。

福田は大蔵省(現・財務省)主計局長を経て政界入りした。吉田茂岸信介池田勇人佐藤栄作と続いた戦後の「官僚派」の継承者

これに挑戦したのが、高等小学校しか出ていない田中角栄角栄の権力の源泉は、カネだった。政治家が欲しいのは、カネ・ポスト・票ですが、全身全霊でカネとポストを与え、選挙になると応援演説に出掛けて行った。選挙応援代も、それまでは100万円が相場だったのに、1000万円、2000万円と渡していた。



三角大福 - Wikipedia

三角大福(さんかくだいふく)とは、佐藤栄作内閣総理大臣自由民主党総裁の後継の座を、自民党の実力者である三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫の4人が争ったことから、各人の名前の1文字を取って表した言葉である。 中曽根康弘を加えて三角大福中(さんかくだいふくちゅう)と呼ぶこともある。

三角大福中は、いずれも自民党幹事長を経て総裁になっている。
田中角栄は総理総裁の条件として、「党三役のうち幹事長を含む二役、内閣 (日本)で外務・大蔵・通産のうち二閣僚」を挙げていた。三角大福は全てこれを満たしていた

その反面、総理の女房役的な役割を担う内閣官房長官を務めたのは大平正芳ただ一人である

その後、「安竹宮安倍晋太郎竹下登宮澤喜一で、後継を競うが、いずれも内閣官房長官を努めている。

政治力は、経済や外交の能力ではなく、政党や内閣組織の経営力らしい。
その登竜門は、内閣官房長官という政治家と官僚の調整役になったようだ。

平成おじさんの内閣官房長官も総理になり、福田の息子や安倍前総理も内閣官房長官のあと総理になっている。