matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

いつ止めるか


テレビドラマで白州次郎をやっている。ハイビジョンで見たのだが、その映像の素晴らしさと次郎の人物像が魅力的だ。いまの大河ドラマ上杉謙信が「義」で戦いをしているというモチーフがあるが、戦争の目的というのは、ただ戦いをするということではなく、国家や組織が目的を達成するための手段だ。戦国時代の戦乱は武装集団間の勢力争いの結果というよりも、生き残りのための規模拡大の結果でもあるだろう。中世の日本では飢餓が頻繁に発生し、農閑期に他の地域を侵略することにより食糧を調達できるといった実利的な効果もあったようだ。強い統治者が存在する民は、侵略を受ける側より恩恵をこうむる結果となり、他国へ戦を行う領主こそ善であり、北条、毛利、武田、上杉、伊達、島津そして織田とひたすら領土拡大を図ったのは、成長路線を止めないためでもあったはずだ。豊臣政権は天下統一を実現し、海外への拡大に失敗した結果、政権は崩壊したともいえる。
戦争というのは、経済的には破壊行為とは裏腹に成長できる需要拡大効果が大きい。大恐慌を終わらせたのはニューディール政策ではなく、ナチスの脅威など戦争ではなかったか。
旧日本軍が大陸への拡大は、従来の経済圏から拡大する有効な戦略だった。しかしながら、戦争という手段は、より大きな規模の経済力などにより限界がくる。
いつ戦いを止めるのか。総力戦ではなく限定的な戦争をどう実現するべきであるが、拡大、成長路線を止めるという決断をするのは非常に困難である。現在の金融危機は誰もが、永遠には続かない、いつかは終わりがくると判っているが、それが今なのか、将来のいつ頃なのか誰にも予想できないからだ。

戦略の本質 (日経ビジネス人文庫)

戦略の本質 (日経ビジネス人文庫)

この本には、さまざまな先史から戦略というものをケーススタディとして論じられている。
そのなかで、私として興味がそそられたのは、第4次中東戦争サダト大統領の戦略だ。
私は、第3次中東戦争で大敗したエジプトがその報復としてエジプト側が仕掛けた戦争というイメージをもっていた。アラブ対ユダヤという宗教的なそしてナショナリズム的なイデオロギー的な側面から勃発したものだとばかり思っていた。
当時のエジプトは、シナイ半島を占領された結果、スエズ運河からの収益を得ることができなくなり、対イスラエルへの防衛という固定的で膨大な維持コストを抱えるという状況だったようだ。収益が減りコストが増大するという経営的に言えば、倒産へ進む図式である。ここで、シナイ半島を奪還し、スエズ運河を再開するということを狙って戦争を仕掛けるというのは、ある意味至極普通の戦略である。しかしながら、イスラエルの軍事力は強く、ユダヤ社会を抱えるアメリカが背後にいる状況で、ソ連の後ろ盾にしている状況では全面戦争として勝利を得るということは、望み得ないことであり、それが一番わかっているのはエジプト軍部だったようだ。勝てないならば負けないように守りに徹する、つまり戦争を仕掛けない側であるということになる。
その状況で、サダト大統領は軍部を粛清してまで開戦に至らしめた。戦前の東條とも言える。
しかしながら、サダト大統領の戦略は限定戦争だったのだ。イスラエルとの和平を実現しスエズ運河を再開することのみが最終目的であり、アラブ大義の実現ではなかったのだ。初期に戦術的な勝利を獲得し、そしてソ連からアメリカに接近し、和平を実現し、シナイ半島を回復した。その結果、収益を改善し、イスラエルへの防衛費用を削減したのだ。戦争をイデオロギーナショナリズムといったものを目的としないことが成功に結びついたといえる結果である。
はたして、この戦争に「義」はあったのか。「利」だけが目的だったのだろうか。いや、和平という平和を得ることによって、未来の戦争を防ぐといった人命、生活権の保護などを得ることによって民の幸福を得たという「義」を得たと思う。戦国大名が他国に進出することにより、自国内は平和になり、経済発展を実現してきた。
しかし、サダトは、「アラブの大義」を実現しない、いや裏切りとみなされ暗殺されている。イデオロギーは人類を幸福にするのは許せないものだろうか。