matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

政治とはまつりごと


ただの酔っ払いだったことが露呈してしまった、某大臣。
酒を飲むことが、そのひとの人格や資質を疑うこととはまったく異なる次元であることは確かだが、果たすべき職務や責務を果たせなかった理由が飲酒であるならば、それは過失であろう。ただし、この未曾有の経済状況の中で酔っ払い行為のみを議論し、政策議論の場である国会審議の時間や報道の紙面を費やすことは浪費以外なにものでもない。

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

中世社会では、避けようの無い飢饉が頻繁に起こり、繰り返される戦乱の中、宗教は政治より必要だったのだろう。
村の中には、かならず鎮守の神社があった。その神を祭るのが集団のリーダであり、その氏子であることが集団としての求心力になっていたはずだ。そして中世以降、葬送の担い手としての仏教が檀家組織を形成してきた。死に対する対策が仏教の大きな役割になっていたかのようだ。生や自然を司るのは神社であり死に向かい合うのは仏教であったかのようだ。為政者は、その生死の両方を祀ることが大きな役割であり、統治の裏付けになっていたはずだ。
現代において、為政者側の裏付けや役割はなんだろうか。政策は行政組織をもつ官僚でしか作成・実行できず、政治家は個人に過ぎない。官僚機構はその存在させている組織を保持することが最優先であり、個人の政治家はその個人を超える価値を生み出せない。その典型的な例が酔っ払い行為への追求が政策論議である国会でされていることが示している。
かつて、政治はイデオロギーヘゲモニー争奪の場であった。その対極であった共産主義の瓦解は、イデオロギー論争を無くし、最大多数の幸福の追求は損益の追求のみになり、目玉の政策は、いかに現金をわたすかというものになっている。