集団をまとめるものは
狩猟型の生活スタイルでは、分散してないと採りつくしてしまうので、分散し、縄張りが明確にならざるを得ない。意外に、非干渉であり、接触があるのは交易であり、相互尊重のスタイル。
農業になると、自分で栽培してきたのだから、当然、他人にわたすわけにはいかないし、集中して収穫が可能ということは、収奪が容易になるということでもある。採取型の縄文時代から弥生になってかわったのは、争乱の到来だ。栗やどんぐりなど小規模に栽培していた縄文の農業では、個人完結型である。日の当たる山肌を焼き、木の実やさし木をすれば、栽培が可能であり、栗などは、成長後、数年にわたって継続的な収穫が可能だ。
稲作、特に水田には水利が必要であり、その維持、構築には集団としての力が必要である。単位面積たりの収穫率が格段に高い稲作は、多くの人が集中しての生活が可能になった背景もある。そこにリーダが必要になる。
原始共産制とも、古代、人には階層はなかったはずだ。そのなかで豪族までになり、古墳まで作らせる支配者までいたったのか。
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上記の本によれば、神を祭る人が指導者だったようだ。そういえば、かならず集落単位に氏神たる神社がある。神話にでてくる祖先を想定していたり、御神木や神石など精霊を祭るなど、縄文や、初期の古代の開拓集団たる弥生の人々が祖である部落や村の起源なのだろう。それが、平安以降、荘園という開墾地は、国衙の支配を逃れる、つまり脱税ですな。それでも、祭る人が支配者であるので、八幡様や、藤原氏の氏神である春日神社などを祭る。
人は、「祭る」ものに従うという習性なのだろうか。宗教などイデオロギーが、支配力の根源なのだ。政策というものが政治の根源になっていないのではないかとなんとなく思ってしまう。
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ベンチャ企業の人間ドラマがあるが、やはり、成功している企業家には、コンセプトありきという印象。