matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

歴史上の固定概念


歴史上には定説というのが存在する。それは、誰が決めたのだろうか。
歴史は、歴史という記録が残っている場合に形成されている。記録として残されていなければ過去のことなど知りえることができない。埋蔵物などで過去の一部ことを知りえることも可能だが、政治や経済の変化や経過を知る得るためにはプロセスを記録されたものが必要である。
問題は、その記録された内容が事実であることを証明するのが難しいことだ。残されている公的な歴史は勝者により作成されたものが大部分であり、それが正史となっている。

大化の改新が、中大兄皇子が自ら蘇我氏を征したことになっているのだが、それに疑問を呈したのがこの本だ。

偽りの大化改新 (講談社現代新書)

偽りの大化改新 (講談社現代新書)

日本書紀は、天智天皇から政権を奪った形になった天武天皇により編纂されている。
天智天皇天武天皇は兄弟であり、天智天皇の娘を后にしている。天智天皇を否定するわけにもいかず、かといって全面的に肯定するわけにはいかない微妙な時期でもある。
蘇我氏の征伐が孝徳天皇が黒幕ということにすると、確かに納得できることが多いのは同意できる。しかしながら、記録となるものが残されていない以上、これらを立証することは今後も無理だろう。残された歴史がすべて正しいとは思えないが、それに変わりうる記録物が無いかぎり否定できない。

結局、記録として残されたものだけが事実として記憶されることになる。

大阪の陣で、英雄となった真田幸村など真田一族にも、歴史的なイメージがある。
真田昌幸は、何度も主人を変えているリアリストな謀略家というイメージはないだろうか。

真説・智謀の一族 真田三代 (新書y)

真説・智謀の一族 真田三代 (新書y)

上記を読むと、先祖伝来、墳墓の地をひたすら守る、そして決っして恩義を忘れず、反骨精神をもった一族であるということだ。

事実は限りなく無数にあるが、真実はどこにあるかは判断が難しい。それは、真実がひとつなのではなく無数にあるからでもないだろうか。