matsuok’s diary

あくまでも個人的意見であり感想です

評価、成果主義って

最近というか、バブル崩壊以後、成果主義が叫ばれて久しい。いまや、自己責任という言葉と共に、これを否定することは難しいようだ。

ここでの一番の問題は成果の評価である。正当な評価がされていれば、成果主義というのは、誰も、異論はないであろう。しかしながら、成果というのは、ゴール設定ありきのはなしで、そのゴールへの達成度で評価が決定されるのが一般的である。では、そのゴール設定だが、普遍性があり、定量化できるもので順列がつけられる。定性的な効果というのは定量化され、計測可能なものに変換する必要がある。
また、評価するには、期限、期間という設定がないと確定できない。

となると、設定されるゴールが、一定期間で、定量化できる項目にする必要がある。

一般的に、企業でいえば、会計年度がその期間のベースであり、税会計の期間である1年になる。しかしながら、手形などの決済間隔は、3ヶ月以上になることは稀であることから、四半期単位で評価期間になるケースがある。また手形決済があまりない、欧米では一般的に四半期での評価が厳しい。
となると、短期目標のみが成果として評価されやすいということになる。研究・開発業務にいたっては、自動車でも2年、新薬にいたっては、10年以上かかることも稀ではない。

人が人を評価するのが難しいのは、評価されたい人の項目と評価する側の項目や尺度が一致できないことである。価値観の完全な一致というのは個人間では一番難しい。互いの価値観を尊重することが、重要である。

では、評価や、成果主義が悪であるかというと、人間、評価されたいという生き物でもあるから、これも無い。

先日読み終えた、

男の嫉妬 武士道の論理と心理 (ちくま新書)

男の嫉妬 武士道の論理と心理 (ちくま新書)

 だが、
タイトルは、「男の嫉妬」とあるのだが、実績と評価に対する人間の性を感じてしまう。

武士道を説いた、「葉隠」の作者が実は、嫉妬深く、中傷家の一面を持っていたこと。武士たちのなかに、おのれの自負心がなるが故の心情でもあるのだが。

価値観と、評価に関する問題は、嫉妬というかたちで表されている。
この本のなかで、述べられているエピソードで、「武辺に対する評価をめぐる不満」、「首をとることと恩賞」というものがある。
戦場における働きの評価として、どうするか。
殿を務めたこと、一番がけや先陣を切ったことなど、特別賞みたいなものがあるが、基本は「首」の個数だとする。
つまり、定量化でき、誰も見ても同じ評価になる項目で成果が評価されがちであるということだ。
かの豊臣秀吉朝鮮出兵では、耳塚というのがある。朝鮮の戦場で敵の耳を切り取り、それを瓶に塩漬けし、その数を各武将は競った。その耳は京都の豊国神社近くにある。それは、残酷な極悪非道なことを、ことさら誇示しようとしたのか、はたまた、その悪行を悔いて供養しているのか言われている。
しかしながら、耳を削ぎ落とすということは、異国民である挑戦民族に対しておこなった残虐行為ということではなく、戦場における、評価項目として、敵兵を何人倒したかという数量把握のために過ぎない。国内の戦であれば、首をとり、その首の個数で評価した項目だが、海を渡り、本国にそのエビデンスをおくるためには、首ではなく、その一部である耳という形態が効率的であったというのにすぎない。武功を証明し、成果を証明しなければならない。

しかしながら、首といっても、一手の大将の首と、足軽の首では評価が同じというわけにはいかないだろう。著名な武将であれば、その顔で判断できるというわけだが、敵方のすべての顔が判別できるとも思えず、そうなると、たとえば、被っている兜の立派さできめるとかになる。そうなると、評価がそれで正しいのかというのが、怪しくなる。

であるが故に、一切、武辺の評価をしないということもあったようだ。信長などは、首の数だとか、負傷の数では評価せず、織田家の家臣ならば、武辺で戦うのは当然であるというスタンスであったようである。
そのなかで、信長は、秀吉や、明智のような新参家臣を抜擢し、結果として成果主義を貫いている。かれは、カリスマ性と、己の責任として総合的な評価を自ら行っていた結果であり、その評価が正しかったことが織田家躍進の結果が示しているのだろう。

考えてみれば、企業になり、組織に属するものが、そのなかで組織全体のゴールに対して貢献していくのは、当然のことでもある。
数値化できない項目は評価しないのでは、数値化が明確にできないことはやらなくていいということになってしまう。。